広州人物図鑑

  • 「これまで14年活動してきて」


こんにちは。1 (4)

原田燎太郎と申します。

日本の大学3年生だったころ、中国のハンセン病快復村の存在を知りました。

大学卒業後は広東省のハンセン病快復村に住み込み、地元の学生と共に活動することができるよう、村と大学を走り回りました。

2004年には『家-JIA-』というNPOを立ち上げ、現在に至るまで広州を拠点として活動しています。

ハンセン病は現在では治癒する病気です。しかし、かつて有効な治療法のなかった時代、らい菌が皮膚や神経に影響することを抑えることができませんでした。そのため、体に変形を起こすことがありました。この変形はハンセン病の治癒後も元に戻らず、後遺症となりました。そのため、「ハンセン病は不治の病である」という誤解を招きました。「感染力が強い」「遺伝病」という誤解もありました。患者は隔離され、治癒後も実家に帰ることができませんでした。帰れば、家族ごと村八分にされてしまうからです。

中国では1950年代から政府が対策を講じ始め、全国に800以上のハンセン病隔離病院がつくられました。現在では約600の元隔離病院が残っており、そこには2万人のハンセン病快復者―つまりハンセン病が治癒したものの、差別や偏見のために実家に帰ることができないままの人々―が住んでいるといわれています。ハンセン病が治っているため、医療的な機能はなく、ただの村と化しているので、「ハンセン病快復村」と呼ばれています。

僕らはそのうちの約50ヶ所で活動し、中国や日本の学生ボランティアと共に長期休暇中に村に1-3週間住み込み、インフラ整備や差別減少のための活動を行っています。この活動には2001年から数えて1万7000人が参加してきました(90%以上が中国の大学生)。

以下、これまで広州を拠点に、広東省で活動してきた僕の雑感を記します。

 

これまで中国のハンセン病快復村で14年活動してきて、ずっと心に引っかかっていたことがある。それは、広東省東部の梅州平遠県に独りで住んでいる楊四妹のことだ。

2003年7月17日。梅州平遠県の中心部から車で40分行くと山道に至る。山を切り開いてつくった崖道だ。ガードレールはない。運転を誤れば崖から落ちる。崖肌は土とも岩ともつかない剥き出しの斜面だ。荒涼とした風景が広がる。

50分間グチャグチャに揺られると、1軒の家が見えてくる。村人(ハンセン病快復者)の家だ。車を降りると、あたりは耳鳴りがするほど静かだ。緑はほぼない。人工的な形をし、乾燥した土色の山が周囲を囲む。日差しが強烈だ。周囲からの照り返しも含まれているだろう。

部屋の戸には中国共産党の標語がある。「共産党と共に歩もう」、「毛主席の話を聴こう」。戸を開けると、中央に吹き抜けがあり、その下に池がある。涼しい。それを囲うようにいくつかの部屋が並ぶ。そのうちの1つから、おばあちゃんの声が聞こえる。この小さな、痩せたおばあちゃんの名は楊四妹。部屋にはホウキ、メガネ、薬、耳掻き、日めくりカレンダー、洋服などがきちんと並んでいる。水道はあるが、電気はない。ガスもない。

彼女は眼が澄み切っている。変形した手を組み、シャツの襟に唇を触れながら話す。透明な笑顔の眼は時折、悲しみに変わる。何か高貴な美しさを感じる。中学生の頃、黒縁メガネの数学の先生が言った、

「女の人の本当の美しさは、年をとってから見えてくる」。

 2003年当時の楊四妹
 2003年当時の楊四妹

40分ほど滞在し、もう戻ることになる。僕が握手の手を差し出すと、おばあちゃんは一瞬何のことだか分からないという眼を見せる。彼女は暫し私の手を離さない。

車に向かうみんなの背を追う。振り返ると、おばあちゃんが部屋と部屋の間に小さく見える。松葉杖をついてこちらを見ている。彼女の左足は木の棒の義足だ。手を振ると、彼女はゆっくりと松葉杖を壁に立てかけ、手を上げる。部屋にあった中国共産党の赤い標語―「興無滅資」―が虚しい。

 2003年当時の楊四妹の家  室内のスローガン
 2003年当時の楊四妹の家  室内のスローガン

その後、僕はこの村と楊四妹を訪れることができないまま、今にまで至ってしまった。「梅州」という地名を聞くたび、彼女のことが思い浮かんだ。

そして、さっき、謝翠屏から連絡があった。

「楊四妹おばあちゃんのことを覚えている?明日、彼女を迎えに行って、東莞に連れて帰ってくるよ!」

謝翠屏はちょうど僕より一回り年下の女の子で、学生のときにワークキャンプに参加した。卒業後は東莞にあるハンセン病快復村を管轄する病院に就職し、24時間快復村に駐在している。村では「110番よりも謝翠屏の携帯番号」と言われるほど、村人たちからの信頼が厚い。彼女の仕事のひとつは、広東省の他のハンセン病快復村を周って村人たちのエピソードや古い道具などを集め、ハンセン病博物館を東莞につくることだ。そのとき、謝翠屏は楊四妹に出あった。謝翠屏とパートナーの黄焱紅は東莞と梅州の政府に掛け合い、楊四妹の移転への合意に至った。

JIAの活動がこのように波及していくことを本当に嬉しく想う…。

 現在の楊四妹
 現在の楊四妹

 

『家-JIA-』(Joy in Action)

原田燎太郎

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