広州人物図鑑
- 広州の歴史と歩む
みなさん、はじめまして。本年11月に花園ホテル 営業マーケティング部に着任いたしましたトリンブル恵理です。この度、広州人物図鑑のお話しを頂き、私で良いのかな?と思いながら、今、原稿に取り掛かっております。
主人、子供3人が暮らすカナダのブリティッシュコロンビア州バンクーバー島から11月9日に単身で広州に入りました。広州は今回で3回目の赴任です。最初が1993年から1999年、2回目が2008年から2012年、そして今回となります。
93年、広東語も中国語も(未だに上手く話せませんが、今回は必ず両語共習得します!)話すことが出来ない私が広州に来ることになったのは、入社した米国系航空会社で乗務して1年が経ちましたが過重労働と、憧れていた日系航空会社とのギャップに悩んでいたとき、たまたま成田便で乗り合わせた前職で上司となる方から「中国初のマリオットホテルがオープンするので来ないか?」と声を掛けられ、両親の猛反対にも関わらず1ヶ月後には広州にいました(笑)。
90年代前半の中国はまだまだインフラ整備が進んでおらず、93年10月広州空港に到着後、市内まで車で移動しているとき、大雨の中、レインコートを着た人の自転車が道の80%を埋め尽くしていた光景は今でも忘れられません。警察官が馬に乗ってパトロールをしていた当時は、まだどこへ行っても外国人料金があり、買い物ができるのは今でもある友誼商店くらいでした。海外からの電話は100%盗聴され(海外から電話があるとカチッと録音スイッチの入る音が聞こえました)、海外からのニュースはCNNのみ、そのCNNも中国の話題になるとブラックアウトになり、ときには朝ほとんど見れないことも。日本の新聞は香港経由で1日遅れて届いていました。
ストレス発散のため、月に1度、空のスーツケースを持って香港に買い出しに行っていました。香港島のそごうやパシフィックプレイス地下の食品売場は懐かしい場所です。まだ広州東駅は無く、広州駅から電車で香港に行っていました。行きには広州駅のホームに入るまでの間に、どんなに注意していてもスリに会い、香港からの帰りには広州駅でスーツケースの中身を全て調べられ、雑誌などは没収されました。一番苦い思い出は、当時4000香港ドルで購入したDVDプレーヤーを没収されたことです。免税で購入していないという理由で、商品没収のうえに罰金4000元を支払わせられました。
当時は外資系企業の進出ラッシュで、勤務していたホテルには日系企業50社以上、外資系企業も100社以上、そして各国の領事館などがあり、アパートメント、客室にも長期滞在400世帯以上の方が住まれていました。当時の私は20代前半で、社会人経験が浅く、5歳から海外で暮らしていたため日本人としての常識がなく、よく日本人のお客様からお叱りの言葉を頂いては、陰で泣いていました。一方で、当時は日本人長期滞在の方は限られていたため、とても絆が強かったです。そのうえ、独身で広州駐在の女性が限られていたためか、日本人の奥様方から実の娘のように可愛がっていただきました。当時はまだ広州市内には日本人経営の日本食レストランは無かったので、おにぎりなどを作っていただいたり、日本食会(週一で、誰かの部屋に集まり、日本食、日本酒を持ち合い飲み食べる)にもご招待いただきました。その方達とは今でも繋がりを持たせていただいています。
寝る暇もないほど慌ただしく、無我夢中で、あっと言う間に6年が過ぎた感じでした。その中でも忘れられないことは、日本エアシステム様の広州直行便の就航、そして本田技研様のアコード立上げメンバーの方々です。中国市場において外資との合弁会社による初のブランド、アコード生産のために、日本から立上げメンバーとして100人以上の方が半年以上ホテルに缶詰状態で仕事をされ、畑だった場所に工場を建設、車の生産されるまで皆さん汗水流して一つのことを仕上げる姿を日々拝見し、機械も車についてもなんの知識のない私ですが感動したことは今でも昨日のことのように覚えています。この体験は、今の私の大きな糧となっています。
次に忘れられないことは97年の香港新空港オープン、ディズニーランドオープン、そして香港中国返還。小雨の中、深センから数千人の兵士が一糸乱れず隊列で香港へ移動する姿は46年間の人生の中でも忘れることのできないワンシーンです。
そんな広州も99年に去る頃には広州東駅がオープン、同時期に完成した中心広場の地下1階と2階で日本食が手に入るようになり、NHKも受信できるようになり、和食店も数軒オープンしていました。天河にあります和作の初代オーナーの太田さんが焼かれたアンパンを週末食べるのが楽しみでした。急激な発展期を体験した6年間は、映画バックトゥーザフューチャーの世界で、幼少期から13ヶ国に滞在していますが、一番印象の強い街となりました。
99年に広州を離れてから子供3人に恵まれ、その後はクエート、ドイツを始め7ヶ国に駐在。どんなに忙しくても、子供達とは出来るだけ多くの時間を過ごそうと無我夢中で、試行錯誤しながら毎日格闘していました。食べながら居眠りしてしまうほど疲れていても、子供と遊び、主人の顔を見ることで元気を回復する、そんな日々を繰り返していました。やはりフルタイムで働きながら全ての事を完璧にやることは難しく、主人、実母含め多くの方の協力を得てやっとやってこれたのだと思います。
2008年、北京オリンピックのヘルパーとして再度単身赴任で北京へ赴任。北京オリンピックの終了とともに2度目の広州へやって来ました。2008年から2013年の広州の激動の発展も忘れられません。21世紀になり、道路や建物、それに道行く人たちを見ていると、随分と先進国に追いついてきたという感がありました。地下鉄に乗れば香港にいるような感覚になりますし、道行く人もファッションセンスは見違えるほど変わりました。街の中心が天河から珠江新城へ変わる途中で、珠江新城は建設ラッシュ、大げさですが、世界中のクレーン車が集合したのではと思うほど珠江新城周辺はクレーン車で埋まっていました。 2013年に広州を去るころにはオペラハウスと広州タワーも完成していました。
13年に広州を離れカナダへ。主人の仕事の関係で、冬はマイナス20℃にもなるエドモントン、フォートマックからバンクーバー島へ引越し、それを機に大学に戻り、つい最近まで心理学を学びながら子育てに奮闘していました。朝、娘3人を学校に見送ってから迎えに行くまで学校へ、その合間に勉強と家事。主人がオフの日は家族全員で夕食を食べ、子供と主人が寝たらまた勉強。そんな生活を過ごしながら、改めて学ぶことの楽しさを実感しました。この心理学は今の仕事にとても役立っています。
そんな生活を送っていたところ、数年前から前職の上司(現在のホテルの総支配人)から今の仕事のお話しを頂いていましたが、長女の大学入学を機会に単身で広州に戻ってきました。まさか広州へ戻るとは、今年の9月までは想像もしていませんでした。総支配人(マカオ系アメリカ人)は、ホテル業に転職したときの最初の上司であり、23歳から営業マーケティングの基礎を厳しく指導し、私を育ててくれました。彼の下で働くのは今回で4回目となりますので、彼のNEED&WANTSは常に理解でき、今では彼から指示される前に自分から動けるようになりました。これは長年の勘ですね(笑)
復帰を決意した理由は、彼に「NO」と言えなかったこともありますが、20年近くのホテル人生で多くの方からたくさんのことを学ばせていただいた分、今回は自分が与える立場になり、若いスタッフを育て上げていきたいと思い、2年間という期限を決め単身赴任することにしました。
花園ホテルは、1985年開業、客室828室、アパートメント棟151室、オフィス471社、郵便局、銀行、医療施設などもあり、この記事が掲載されるころにはミニマートもオープンしています。80年代、90年代に開業したアジア特有の巨大ホテルです。日本総領事館や広州日本商工会もホテルのオフィス棟にあります。ホテルをデザインした建築家はフランスのナポレオン広場にあるルーブル・ピラミッド、モントリオールのカナダロイヤル銀行本部ビル、ワシントンDCのナショナル・ギャラリー・オブ・アート東館、香港の中国銀行の設計に携わったイオ・ミン・ペイ氏。ホテル全体の建物は風水を重視したデザインで、施設内のいたるところに水が流れ、1階の庭の池には500匹の鯉、そして滝の中央には水氏が祀られています。皆さん、お時間がありましたら是非一度覗いてみてください。一瞬、自分が中国にいることを忘れ、滝の音を聴いていると何かインスピレーションを感じるかもしれませんよ。
ホテル従業員は約2000人(うち外国人スタッフ29人)が勤務しており、24時間のオペレーションですので、日々いろいろなハプニングがありますが、皆で一つ一つクリアしています。私の所属する営業マーケティング部は27名。平日8時から夜中まで、各自仕事しています。広州に来て1ヵ月ですが、平均睡眠時間4時間、まだ1日も休めないほど慌ただしい状態です。部の総監と私以外はほぼ20代で、皆自分の娘や息子のようで可愛いです。ほぼ全員が帰国子女のため、社内メール、会議は英語ですが、普段のオフィス内では大声の広東語が飛び交っています。喧嘩してるように。最近、この環境にやっと慣れました(笑)。今まで外資系ホテルで勤務していましたので、正直かなり不安がありますが、与えられたチャンス、この大規模ホテルの経営に少しでも役立てるよう、そして総支配人に恩返しできるよう、従業員2000人の一員として、常に感謝の気持ちを忘れずおばさんパワーで頑張りたいと思う日々です。そして、私が若いころ、皆に支えられながら1個1個ハードルを越えて来ましたが、それが今の私の糧となっているように、部下一人一人を支えていきたいと思っています。部下達には、人との出会いを大切に思い、言葉、行動に責任を持ち、羽ばたいてもらいたいと思っています。
今回、広州に来て驚いたことは生活が本当に便利になったことです。香港のような街、でも何かが違います。先月、日系企業にご挨拶のため約5年ぶりに珠江新城へ行きました。劇的な街の変化に圧倒されました。しかし、生活は変化しましたが、広東人は20年前と変わっていませんね。皆、元気で強気ですが、思いやりがあり本当に優しいです。“食は広州にあり”、皆、食べることが大好きで、自由なオフィス内は朝から晩まで1日中スナックから軽食まで置いてあり、常に誰かの口に食べ物が入っています(笑)。ホテル地下には1000人収容のスタッフ食堂があり、ビュッフェ形式のフルコース、かなり豪華です。皆、昼から食べる食べる!どんなに忙しくても、もりもり食べながら大きな声で話す皆を見ているだけで元気が出ます。あと、広州独特の“におい”は94年当時と変わらないですね。故郷に戻った、そんな感じでしょうか。
「家族と離れて寂しい?」と皆さんから聞かれますが、今はどこにいてもWechatで話せます。毎朝5時に娘達と話しています。子供の成長を日々見られないのが残念で、幼い三女には特に寂しい思いをさせていますが、私が母親の働く背中を見て育ったように、彼女達にも、強く育って欲しいと思っています。
このような内容を書いていると、良いことばかりのようにみえますが、辛いこともいっぱいありました。三女を出産後、乳がんを2回(香港、カナダで手術)、そして卵巣腫瘍の手術(香港)を受けました。ホルモンが不安定になり、仕事をしながらの治療は言葉で表現できないほど辛かったです。でもそれを上回るほどの人生最大の事件は、北京駐在時に愛犬ダルメシアに右耳全部を噛み切られたことです。北京ユナイテッドファミリー病院で10時間もの手術を受けました。病院に着くまで出血が止まらず、本当にこれが最期かと思いました。幸い、半分の耳は戻りましたが、今でも後遺症があり、右耳は常に髪で隠している状態です。4度も大きな手術を受けると、健康で、家族があり、仕事があることを心から感謝でき、穏やかな気持ちで過ごせ、どんな事に遭遇しても大丈夫になりました。“幸せは自分の心次第”だと思うことで乗り切れます。今が一番元気です!出し惜しみせず、悔いのないよう精一杯頑張りたいです。最近になり、頑張っても何かの見返りを求めず、頑張ったら達成感が自分に返ってくるとわかりました。残りの人生、人のやらないこと、時間のかかることに少しでも多く挑戦し、食べたい物を食べ、いっぱい学び、いっぱい働いて、旅行してたくさんの人に出会いたいと思っています。
得意なことは、どんな道でも恐れず一人で渡れることですね。90年代、それも信号のない流花路を渡り鍛えられました! 当時のドライバーは、今以上に頑固で止まってくれず、何度も轢かれそうになったことも。もちろん、歩行者と車が衝突するシーンを何度も見ました。あとは、お酒が誰よりも強いことです(大げさですが、働いたあとの一杯のために働いていると言い切れるほど、お酒が大好きです)。これも若いころ、この広州で、広東人に鍛えられました。
広州3度目のチャレンジ、2年間という赴任期間、とても楽しみです。
歴
1971年、横浜出身。三女の母親。実母は鳥取県のど田舎でコンビニ3店舗経営。実妹はアメリカ コロラド州で内科医。父親の仕事のため5歳から11歳までインドネシア、ジャカルタで暮らす。オーストラリア サウスオーストラリア州アデレード大学時、ノースウエスト航空(現デルタ航空)入社。93年、マリオットホテルズインターナショナル入社。中国(広州、上海、北京)、クエート、ドイツ、バンコク、マレーシア、ハノイ、台北駐在。今年11月に広州に単身赴任、嶺南グループ入社、花園ホテル着任。
動物占いはペガサス。幼少時代6年間インドネシアで育ったため、楽天的でかなりの変わり者(10人中10人の日本人から言われます)。とにかく明るくポジティブに物事を考える。食べ物に好き嫌い無し。インドネシアで鍛え上げられた胃腸は今も健在。大好物は、物心ついたときから現在に至るまで、横浜の崎陽軒の焼売。365日食べたいほど大好きです。趣味は旅行とジョギング。これまで訪れた国は32ヶ国。来年5月に家族とマダガスカル旅行の予定中。
先週、ホテル主催のパーティーで日本語のMCを担当。途中、何十回もつまり、こんな楽天的な私でも何年かぶりに落ち込みました。日本語もブラッシュアップしなければと悩む今日この頃です。
トリンブル恵理