広州人物図鑑

  • ゴルフの魅力をより多くの人に伝えていきたい


「残りの人生を思う存分楽しみたい。そして、より多くの人にゴルフの魅力を伝えていきたい」。そう語ってくれたのは広州でゴルフ用品の貿易を手がける「広州鈴奎貿易有限公司」の董事長、鈴木敦さん。ゴルフ歴はなんと47年、ゴルフに生涯を捧げてきた鈴木さんに話を伺いました。

——最初に中国に来たきっかけは何ですか? また当時の思い出は?

最初は1996年、ゴルフメーカーの駐在員として香港に赴任したのがきっかけです。私が香港にやってきた当時、日本では既にゴルフ景気が下火になり始めた時期でした。そこで私が勤めていた会社は株式店頭公開を機に、これからは海外、特に中国に目を向けて事業を展開していこう、となったわけです。私が香港に来た翌年の97年、イギリスから中国に返還されるわけなんですが、当時は香港全体がとても盛り上がっていて活気ある時代でした。あの時は、「私は世界の中心にいるんだ」と感慨深くなったことを思い出します。

——ゴルフを始めたきっかけは何ですか?

父親の影響で、13歳の時に始めました。長男なので、父親にくっついてよく練習場に行っていましたよ。ゴルフは、何歳から始めても遅くないですし、何歳から始めても早くないんです。実は周りからはとても見えないと言われますが、学生時代は柔道とレスリングをやっていて、それぞれ2段の資格を持っています。高校時代にレスリングで国体に出場し、準優勝したこともあります。元プロレスラーで元文部科学大臣の馳浩くんとは同期で、全国大会で2回対戦したこともあります。また、プロレスラーで2代目タイガーマスクの故三沢光晴選手は、北関東チームの2年後輩でした。

ゴルフは他のスポーツに比べ激しくありませんし、よく歩くので健康にも良いんですね。私はいつの間にかゴルフの魅力に取り憑かれるようになりました。ゴルフ一筋で、気づけば47年もの間ゴルフをやっています。しかし、私が子どもの頃のゴルフクラブは、今のように300ヤードも飛ぶクラブではありませんでした。ウッドクラブのヘッドは文字通り木製で、しかもスチール製のシャフトでとても重い。グリップもラバーではなく革、長さも42.5インチと短く、要は飛ばないクラブだったんですね。私はそんな時代からゴルフをやっています。

——ご自身で事業をやるようになったきっかけは何ですか?

2004年に突然会社から日本への帰国辞令が出たんです。そこで日本へ戻ることになりました。しかし、約8年もの間、海外で責任者として会社をやりくりしてきた人間にとっては、日本での仕事にどうしても馴染めませんでした。そして「私は会社の歯車の一部でしかない」という感覚がいつも胸の中にありました。そんな時、私の父の言葉を思い出します。「将来チャンスがあれば、自分で商売してみろ」。会社員を60年以上務めた父がいつも私に言ってきた言葉です。これは人生の転機だ、そう思って退職届けを出しました。日本に帰任してわずか2カ月目の時です。

日本の会社を退職後、2005年に香港と広州で会社を設立し、広州のランドマークである中信広場にPRGR(プロギア)というゴルフブランドのフラッグシップショップをオープンさせました。プロギアは、その当時から少し変わった販売方法をとっていました。クラブ選びの基準とするヘッドスピード理論を基に、機械が「柔らかい、硬い」を数値として出すんです。お客さんがお店にやってきて、試打してもらい、「あなたの硬さはこうですよ」と一人ひとりに合ったクラブを薦めていました。中国ではどこもそんな販売方法をとっていませんでしたので、当時は革新的だったと思います。

——事業で大変だったことは?

事業を開始して、1年目は大赤字でした。2年目は大赤字から少し赤字。そして3年目でやっと黒字転換でき、さあこれからだと思っていた矢先、思いがけない事態が起こりました。とある中国系のお金持ちが日本のメーカー側と直談判し、弊社の数倍の契約金額を提示して代理店契約を取ってしまったんです。中国でまったく無名だったブランドが、3年間という歳月をかけてやっと知名度が上がってきたところでした。ショックは大きかったですが、それはどの世界でも起こり得ることです。そう考えると、意外と立ち直りは早かったですね。じゃあどうするか……。他人に簡単に取られないようにするためには何が必要かを考えました。

私はゴルフ経験だけは長いので、私の知識や経験を仕事に活かそうと思いました。そこで2008年、賽馬場という場所にある72杆ゴルフ練習場の2階に場所を借りて工房を造りました。プロゴルファーと同じように一人ひとりに合わせてクラブを直したり、調整したりする、いわゆるフィッティングできる場所です。ゴルフというスポーツは、背の高さや手の大きさ、長さによって合うクラブが異なります。クラブの重さだったり、シャフトの硬さだったりと、調整しないといけません。当時はそのようなフィッティングができる場所が無かったので、これは事業になると考えました。ゴルフ業界で長年働いてきた人間にとっては、電子部品の知識もありませんし、また飲食店の経営もできません。結局はゴルフが大好きなんですね。

2008年、賽馬場の72杆ゴルフ練習場に広州で初めてのゴルフ工房をオープン

——工房での仕事はどうでしたか?

シャフト交換などのメンテナンスやクラブのフィッティングはもちろん、訪れたお客さんにアドバイスをすることもありました。ちょっと試打してみくださいと3発打ってもらうと、大体その人の特性みたいなのが分かるんです。ゴルフのレベルはどうだとか、飛距離はこれくらい出るとか。スイングを直してあげることもありました。瞬時にダメな箇所を把握して、「ここの切り返しが早い」「右手を使い過ぎ」という風にアドバイスをします。噂が噂を呼び、遠方からロールス・ロイスに乗って私を探しに来る人や、中国のジュニア世代も親が探しに来ることもありました。そんなこんなで工房での仕事は結構繁盛しましたね。

しかし、工房という仕事も「お金になる」ことが分かると真似をする人が出てきます。私の弟子も独立して別の場所に工房を造りましたし、中国人のお金持ちの人が知識のある人に工房をやらないか、と誘うこともありました。そのようにして次第に工房が増えてくると値段差が生まれますし、工房毎にフィッティング方法も異なってきます。工房もお医者さんと一緒で、こっちの医者とあっちの医者では言うことが違うんです。日本に比べてまだまだ歴史の浅い中国のゴルファーは、工房技師の技術の違いが判りません。お客さんも数ある工房の中から技術よりも自分の好きな工房を選ぶようになり、競争が生まれ、やがて商売も難しくなってきました。2015年から天河区の高星ゴルフ練習場に工房を移しましたが、家賃の大幅値上げと共に2018年に工房の仕事も辞めてしまいました。

天河区の高星ゴルフ練習場にあった工房

——現在のお仕事は?

以前より工房の技術師の仕事とは別に日本のブランド数社の代理店をやっており、グリップやシャフトなどを日本から仕入れ中国のショップや工房に商品を卸しています。例えば姫路は軟鉄アイアンクラブの発祥地として知られているのですが、昔は刀を鍛造していた鍛冶屋が今は形を変えてゴルフヘッドを作っていたりします。そこの会社に弊社のデザインを加えOEM製作してもらい、中国各地のショップや工房に商品を卸しています。

現在は日本ブランドを輸入して中国各地に商品を届けている

会社6階にある現在の工房

——今後の展望は?

私は今60歳で、65歳まで仕事を頑張るつもりです。少しずつですが業務をスタッフに任せて、引退の準備をしていますね(笑)。そして引退後は残りの人生を思う存分楽しむつもりです。外国人が中国で仕事をするのはなかなか難しいと思いますが、それなりに上手くやれば何とかなると思います。中国は国土も大きいので、旅行先もたくさんありますし、歴史的価値の高い場所もたくさんあります。中国で生活をするのは悪くないと思っていますが、だからと言って中国だけとは考えておらず自由に生きていきたいです。そしてこれまでゴルフで培ってきた経験や体験を今後もより多くの人に広めていきたいです。

——中国語は普通語より広東語が上手だと聞きましたがどこで勉強しましたか?

私が広東語を喋れるようになったのは、香港で少し勉強した後、広州でお店を出店してからです。地元の人を相手に商売をするのですから、地元の言葉ができるのとできないのとでは全然違います。勉強しようと思ったきっかけは、広東語が喋れるようになると、親近感も持ってもらえますし、逆に広州で広東語ができないと商売が広がっていかないと考えたからなんです。私の場合は、毎日のように広東語を聞いていたので、自然に耳から入って来て自然と喋れるようになりました。広東語は九声あるので発音は難しいですが……。

2008年に工房を始めた時は、ほぼ広東語を話すお客さんだったので、広東語を話さないと直接ゴルフクラブの説明ができませんでした。そこで面白いエピソードがあります。広東語でお客さんと自由に会話ができるようになってきたある日のことです。工房に来たお客さんがスタッフに向かって「なんだ、お前のところの老板は日本仔(日本人の蔑視語)か?」と広東語で言ってきたのです。その瞬間、スタッフが「うちの老板は広東語喋れるから気をつけた方がいいよ!」と言うと、お客さんが急に静かになりました。

広東語が喋れるようになると、普段の生活も楽しいです。地元のレストランに行って広東語で注文すると、親しみを覚えてくれたりします。また、そのお店の老板から自慢料理を聞けたりもします。広州の人はフレンドリーな人が多いので、広東語を喋るとすぐ仲良くなれます。逆に、地元の人との会話の中で、その人が良い人なのか、また悪い人なのか、商売的関係を築けるのか、騙そうと思っている人間か、なんてことも分かるようになりました。ゴルフ場のキャディさんは、日本人はまず広東語が話せないと信じきっているので、最初は普通語を喋っていて途中から広東語に切り替えて喋ると本当にびっくりされます。毎回、相手の驚いた反応を見て楽しんでいますね(笑)。

2009年プロゴルフトーナメントのヨーロピアンツアーの一つ、香港オープンを見に行った時に撮影。 現在世界ランキング2位、ローリーマキロイ選手の若かりし頃

米国ジョージア州で毎年開催される世界最高峰のゴルフトーナメント「マスターズ・トーナメント」。2013年、中国広州の14歳の少年が出場し、中国人選手として初めて予選を突破した关天朗選手のクラブ調整を一手に任せられた記念として本人からもらったトーナメントの旗(とても貴重)。 关天朗選手は、未だにトーナメントの最年少予選通過記録として残っている

工房にてゴルフクラブの角度を調整する鈴木さん

(DATA)
広州鈴奎貿易有限公司
広州市番禺区番禺万博中心万博四路68号茘園地産中心1011-1012室
020-3156-4651

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