広州人物図鑑

・大西敏幸 ——人のために寄り添うことことが私のスタイル




 日本国公認会計士として広州市で「広州令和咨詢有限公司」を開設している大西敏幸さん。記帳代行や税務申告代行業務だけでなく、人事総務コンサル。中国本土以外の会計コンサルや社外監査役など、幅広い業務に携わっている。「困っている相手の立場になって考える」をモットーに顧客から信頼を得る大西さんに広州で活躍するまでの道のりをお伺いしました。

大学退学、そして公認会計士の資格を目指す
 
 高校を卒業後、1浪をして大阪にある近畿大学に入学したのが1996年。大学でラグビーサークルに所属、兄の勧めでとび職のバイトをしながら、学生生活を送っていたのですが、大学2回生の時「自分はとび職のような力と度胸が必要な仕事は合っていない。だけど、このまま大学にいるとズルズルと流され、とび職と同じような仕事に従事しそうだ」と不安にかられることが多くなりました。そして「このような現状を打破するには、資格を習得し、スキルを高めるべきだ!」と考え、自分に合う資格を見つけるべく、書店の資格コーナーに行くことにしたのです。色々な書店を巡った結果、一番心が惹かれたのは「資格取得で高年収ゲット」、「誰でも受験ができる」と謳われている「公認会計士」でした。「おっ、この資格は自分が求めている資格じゃないか。幸い、簿記の勉強もしたこともあるので、学びやすいだろう」と思い、どこで勉強できるのかを調査。調べていくと資格専門学校「TAC予備校」では「予備校内で働きながら学習すれば、学費が免除になる」というシステムがあることを知り「このシステムは自分のために用意されているものじゃないか! このチャンスを逃したらダメだ」と考え、大学を中退し、TAC予備校で公認会計士の勉強を始めることにしたのです。

公認会計士への道のり、独自の勉強スタイル確立で合格に
 
 3年半。この数字は会計士補(公認会計士見習い)の試験(筆記試験5科目+論文7科目)に合格するまでにかかる平均的な年数と言われています。しかし、これは勉強をすることが得意な人にあてはまる数字で、私のような勉強があまり得意でない人はもっと年数が必要になると予備校関係者に言われていました。実際、公認会計士の勉強を始めて1年間は全く成績は伸びず、模擬試験では常にビリ。阪大、京大、神戸大出身のクラスメイトと比べ、明らかに勉強のスキルが足りていないことを痛感しました。
 
 「彼ら、彼女らと同じような勉強をしてもダメだ。自分に合った勉強のスタイルを探さないといけない」と感じた私は先生たちに相談し、あることに気が付きました。それは「試験に合格するには7科目、全てまんべんなく勉強し、得意、不得意をなくすことが大切である」というものでした。「公認会計士の試験はどの科目も一定の点数が必要で、得意な分野だけに注力していても意味はない。全ての科目が平均点より少し上の点数を取れるようになれば合格への道が切り拓かれる」とわかったので、3年目からはきっちりした学習スケジュールを作り、すべての科目を効率よく勉強するようにしました。このように勉強方法を変えると成績は上昇。3年目の終わりごろには、模擬試験で合格判定をもらえるようになりました。また論文に関しては、試験に出題される論文のパターンを発見。さらに予備校内で働いていたこともあって、これまでの論文出題者の書籍を読むチャンスが多く、どのような文の構成が採点者受けするかを学ぶことができました。このように多くの人のアドバイスと運のおかげで、始めは無理ではないかと言われていた「学習を初めて3年半」で試験に合格し、みごと会計士補になることができました。

キックボクサーのプロ試験合格、会計士ボクサーの誕生
 
 公認会計士になるためには、会計士補として4年ほど、実務経験を積まなくてはいけなく、26歳の時、東京の監査法人で勤務することになりました。東京で働き出して2年がたったある日、私が住んでいた所より徒歩10分ほどの場所にタイ人の経営するキックボクシングジムがあることを発見。大学時代、キックボクシングを少しやっており、「少し身体を動かしたいな」とも考えていたので、このジムに入門、週2回ほど通うことにしました。
 
 そしてジムでトレーニングを始めてから1年が経った29歳、ジムの会長から「試合があるので出場してみないか?」と誘われ、出場することにしました。「どうせアマチュアの試合だろう」と試合に臨み、見事勝利。ただこの対戦相手がプロのキックボクサーのだったようで、ジムの会長から「お前はプロを倒したんだから、プロテストを受けるべきだ!」と半ば強引にプロテストをするよう勧められました。当時勤めている監査法人からは「副業はダメだから、プロになってはいけない」と止められていたのですが、ジムの会長の強引さな勧誘に負けて、プロ試験を受けることに…。そしてなんとプロテストに合格し、世にも珍しい会計士ボクサーが誕生したのです。

会計士とキックボクサーの2足の草鞋、現実は厳しい生活
 
 プロキックボクサーとなった私は、当日務めていた監査法人を退社し、プロキックボクサーとして生計を立てていくことを決心。ただキックボクシングの試合は半年に1回ほどしか試合が組めず、これだけでは生活ができないので、様々な公認会計士の仕事に赴き、スポットの仕事を引き受けたり、予備校で会計士の講師として教鞭を振るったりなどをして、臨時会計士となり、生活費を工面しました。ただ、収入は監査法人で働いていた時よりも減少し、ひもじい生活へと変貌。精神的に追い込まれながらも、パフォーマンスを維持しプロとして結果を残すため、日々トレーニングに励んでいました。

 そのような厳しい生活を続けて7年が経った36歳のある日、タイのテレビ番組よりタイで開催されるプロの試合に招待されます。ファイトマネーおよびそのほかに用意された賞金が破格であり「この試合に勝てば、一躍有名になり、生活を安定させることができる」と思ったので、試合への参加を承諾。タイに赴き、試合に出場して3RでKO勝ちを収めることができました。しかし、勝ったにも関わらず、私の手元に届いたのは僅かなお金だけ。その他に用意された賞金は誰かのポケットマネーに…。その後、関係者を信じられなくなり、独立してフリーのプロ生活を続けたいと会長と交渉をしましたが、進展せずに1年のも間試合が出来ない状況が続きました。その状況を打破するために、弁護士を入れて裁判に持ち込み、最終的に会長と和解できましたが、フリーでの活動および会計士としての両立に限界を感じ、プロキックボクサー人生終了のゴングが鳴るのでした。

再び会計士の道へ、海外に飛び出す

 プロキックボクサーとしての道が立たれ、先行き不安になりそうだったところに、タイで会計士事務所を開設している知り合いの日本人より「海外で会計士として働かないか?」という話が舞い込んできました。その時の自分は「とりあえず東京より離れたい」という気持ちであったので、この誘いは二つ返事で承諾。初めにベトナム、そして広州に異動し、公認会計士として、再び働くことになりました。

 当初、海外で勤務することになれず、戸惑いの連続です。中国のスタッフと協働する際、中国人スタッフがあまりにも自分本位でクライアントのことを考えないことに不満を感じていました。ただ「相手の立場になって考えよう」と考え、「私自身がフォローする立場になればいいじゃないか」とわかり、実践していくと色々な問題は解決。そして日本本社、中国子会社、ベトナム子会社を所有するクライアントから「中国子会社の記帳代行を色々な事務所に任せていたが、大西さんの事務所が一番正確で丁寧だ」と感謝されるほど、私たちの連携はよくなりました。

広州で独立、将来の夢は息子とともに会社経営

 プロキックボクサー生活の7年間、多くの才能ある人々と出会い、学んだことは「私は裏方に徹し、困っている人たちをサポートすることで喜びを感じている」ということです。この精神は自身が開設した広州令和コンサル有限公司の行動指針で、解決困難と思われる案件でも積極的に引き受ける要因になっています。ですので、現在「広州令和コンサル有限公司」では既存の「記帳代行」、「税務申告代行」などのサービスだけでなく、「人事総務コンサル」、「会社運営代行」、「香港・ベトナムなど中国本土以外の会計コンサル」、「日本国際税務」など、幅広いサービスを展開し、クライアントを全力でサポートしています。

 現在、私には7歳の息子がおり、彼と一緒に過ごす時間も仕事と同じくかけがえのないものになっています。将来の夢は、これまで経験してきたことを彼に伝え、立派に成長してもらい、大きくなったら一緒に会社を設立し、経営していくことです。そのためにも私は、ここ広州で多くのクライアントより信頼される人物になろうと日々精進しています。

(DATA)
広州令和コンサル有限公司

住所:広州市天河区珠江東路12号高徳置地広場H座15階
Mail:daximinxing@reiwagz-cn.com

[広州日本商工会][広州人物図鑑]