広州人物図鑑
・中尾一寿 ——海外で和食文化を伝承するため、日々「本当の美味しさ」を求める
在広州日本総領事館で公邸料理人を務める中尾一寿さん。公邸料理人とは「日本と世界各国の架け橋となる『食の外交官』で、大使館専属の料理人として、大使夫妻の食事やゲストを招いた会食やパーティー料理を作るシェフで、これまで広州のほかにインドネシア・バリ島や香港の領事館でも公邸料理人を務めた経歴を持っている。18歳から料理の道に進み、様々な出会いや経験を経て、今、広州で活躍する中尾さんにこれまでの人生を振り返っていただきました。
初めて公邸料理人として勤務した場所はどこですか?
私が初めて公邸料理人として赴任した場所はインドネシアのバリ島です。当時は27歳でとても若く「日本とは違う環境で料理の腕を磨きたい」という野心に満ち溢れていました。
私は18歳から料理の道に進み、大阪の割烹料理店で5年間修業を積んで、日本食の技術を磨きました。そして23歳の時、宮崎に戻りフランス料理レストランでシェフとして厨房に立ち、洋食のスキルを向上させることに努め、そして31歳の時、自身のイタリアンレストランをオープン。県内外の人々から人気を集め、順風満帆の道のりを歩み始めました。ですが私はとても飽き性で同じことをずっとし続けることが苦手な性格で、イタリアンレストランをオープンさせて1年後「何か新しいことがしたい」、「今の環境を変えたい」と思うようになりました。そのような時、知人からの紹介で公邸料理人という職業があることを知り、一般社団法人「国際交流サービス協会」に登録。公邸料理人になることを決めたのです。
バリ島で公邸料理人として腕を振るっていた時、一番苦労されたことは何ですか?
一番苦労したことは食材集めですかね。私がバリ島に赴任した当初はまだ日本食に関係する食材や調味料を扱っている店が1軒しかなく、しかも価格があまりにも高かったので、気軽に利用することはできませんでした。ですので、自分自身でバイクに乗り、市場に行って、食材探しに奔走していたのはとても印象深い思い出です。また魚介類は地元の漁師さんとコミュニケーションを取って、譲ってもらい、日本食で欠かせない調味料である味噌や朝食のお供・納豆は自分で作っていましたね。
バリ島で日本食を作るのは色々制限があって大変でしたが、その分「自分自身が作りたい料理」を作れたのはとても良い経験となり、オリジナル料理のレパートリーが格段に増えました。少し不自由なほうがかえって新たなモノを創造できるかもしれません。また多くの国の人々に料理を振る舞うことで「外交とはどういうものか?」、「日本人としてどのような振る舞いが必要なのか?」ということを考えるきっかけをもらえたのも私にとって大きな財産になっています。
バリ島領事館の公邸料理人を辞めた後はどうされましたか?
バリ島では3年ほど、公邸料理人として料理を振る舞っていました。そしてバリ島の公邸料理人の職を辞した後は、一度宮崎に戻り、お箸でいただける「お座敷イタリアンレストラン」をオープンします。このお店もかつての常連客に加え、新規ゲストからの厚い支持を得たおかげで大繁盛。ですが大繁盛しすぎて、新たな料理を開発する時間がなくなってしまい、悶々とした時間を過ごすことになりました。
レストランのオープンから1年半ほど経過した頃、「このままでは本当にしたいことができなくなる」と危機感を感じるようになりました。そのような時、国際交流サービス協会を通じてロンドンにいる総領事より電話をいただきます。内容は「今度、香港に赴任するのだが、新たな公邸料理人を探しており、あなたに興味がある。一度、私にどのような料理が作れるのかを教えてくれないか?」というもので私は「これはチャンス」だと思い、連絡をくれた総領事にどんな料理を作れるかを記載した書類を提出し、見事香港領事館・公邸料理人のポストをゲットすることができました。そして香港で2年ほど公邸料理人として働きました。
香港の公邸料理人時代はバリ島と違い、食材集めに苦労することはなかったです。ですので、思う存分、自分自身の料理スキルを磨くことができました。そして香港の公邸料理人の職を辞した後はまた宮崎に戻り、10席ほどしかない洋風居酒屋をオープン。そしてその半年後には当時東京などで流行っていた「分子料理レストラン」をオープンさせました。
「分子料理レストラン」は繁盛しましたか?
分子料理とは「食材の分子構造を変化させることで伝統的な料理を根本的に変える料理」で、宮崎でこのような料理を提供するレストランはありませんでした。ですので来店されるゲストのほとんどが県外からやって来る富裕層の人々で、大繫盛というほどではなかったですね。しかし、これまで出会うことのなかった人々とコネクションを作れたのは大きな財産です。
分子料理レストランをオープンさせて4カ月。常連客から「宮崎でこのようなレストランをするのはまだ早いのでは? せっかく腕があるのだから宮崎以外でレストランをオープンさせたらいいのでは?」とアドバイスを受け、さらにSNS上で「海外でレストランを開きたい」とつぶやいていたら、香港で長者番付2位になっている富豪からスカウトをもらい、1週間トライアルを受けることになりました。このトライアルで作った「エビのパスタ」が富豪の心を掴み、ミシュランの星とりを目指すレストランのシェフとして働くことが決まりました。
香港で2回目となる料理人。1回目と違ったことはありますか?
使用する食材が全て高級品で、常に新しいメニューを作るチャンスがあるということですかね。ゲストの多くがオーナーの知り合いでみなさん、本当に美味しいものを食してきていて「このゲストたちを唸らせる料理を作らないといけない」というプレッシャーの基、自身の料理スキルをより一層磨くことができたのが非常に良かったです。ただ初めはレストランのシェフというよりかはオーナーのお抱え料理人としての仕事が多く、オーナーが喜ぶ料理を作ることに追われていたような感じがします…。
香港での料理人生活を終えた後はどうされましたか?
香港で働くのを辞めた後は、また宮崎に戻り、分子料理レストラン時代に知り合った日本人社長と共に新しいレストランをオープン。ただこのレストラン、平日昼間はイタリアン、週末の昼間は和牛ラーメン、夜は和牛懐石という様々な形態を持つ店で、仕込みなどがとても忙しく、ただただレストラン業務を回すことだけに忙殺されていました。
しかしこのレストランのゲストがほぼ県外からの人が多く、コロナ禍の時は経営が傾きかけましたね。ですが、宮崎の繁華街でオープンしていた別店舗の「フレンチ串料理」の人気のおかげで、何とか厳しい状況を乗り越えることができました。
コロナ禍の厳しい状況を乗り越えた後、どのような縁で広州に来ることになったのですか?
フレンチ串料理の常連客に横須賀でビジネスを行う社長がいて、その人の伝手で在広州日本総領事の貴島総領事が公邸料理人を探していることを知り、広州総領事館の公邸料理人に応募したところ、合格。広州で自分のスキルを発揮する機会を得ました。今では広州の食文化を学べる機会を得て、新たな知識を得ることが楽しいです。
今後の目標は何でしょうか?
これまで海外生活が長く、家族と離れ離れの時間が多かったので「一緒に生活をしたい」ということが目標ですかね。ですが「失敗は経験値であり、学び続けること、挑戦し続けることをやめない」という言葉が好きで、性格上「美味しい料理を作り続けたい」という願望がなくならないので、日本に戻ってもまた海外に行きたくなると思います。まだまだ料理に対する探究心はなくなりそうにありませんwww。ですので、もし機会があれば、アフリカ内地の国に行って、新たな世界で和食の素晴らしさを広めていきたいとも思っています。