広州人物図鑑

・船津裕子 ——自然体で生徒と向き合い、外国語を学ぶ楽しさを伝える


フリーランスのアナウンサーの職歴を持つ船津さん。現在は広州にある華南理工大学の日本語学科で長文読解、会話、作文などの授業を行っている。「生徒たちと過ごす日々が楽しい」と広州生活を満喫する船津さんにこれまでの中国生活を振り返っていただきました。

中国で日本語教師になる前の職業は何ですか?

日本語教師になる前、日本でフリーランスのアナウンサーをしていました。アナウンス業に従事し始めたのは20代半ばです。このころはラジオの中継リポーターをしていて、コーナーの企画、機材運搬、中継リポートをすべて自分で行っていました。そこで経験を積み、番組づくりのノウハウを身につけ、30歳で3時間のラジオ番組のパーソナリティを務められるまでになりました。そのほかに司会業も行い「話す」、「伝える」ということと向き合ってきました。

アナウンサー時代に身に付けた能力で、日本語教師の職に活きていることはありますか?

色々な能力を身に付けることができましたが、中でも「わかりやすく物事を伝える」という能力は日本語教師をする上で大いに役立っています。「どのような素晴らしい情報も相手に伝わらなくては意味がない」。これはアナウンサー時代に痛感したことで、情報の伝え手は相手の立場に立って考えることが非常に重要であることを学びました。そして日本語教師になって以降は、より一層相手の立場に立ち「どのようにしたら楽しく日本語を学んでもらえるだろう」と考えながら、日々、生徒たちと向き合っています。

日本語教師になろうとしたきっかけを教えてください

2006年、34歳になった時に中国語の学習を始めたことが、日本語教師になるきっかけだと言えます。当時、私は「2008年に北京オリンピックが開催されるから、中国語を勉強してみよう」という比較的軽い気持ちで、中国語の学習を始めました。そして2年後、中国語の先生から「ハルピンで日本語教師になってみないか?」と誘われ、「アナウンス業の幅が広がればいいな」と思い、経験を積むため、日本語教師をしてみることにしました。

当時の中国は今ほど便利ではありませんでしたが、持ち前のポジティブさで何も問題なく、生活することができました。また、教師という仕事を通じて多くの人と出会い、助けられ、人間として成長できたことはとても良かったです。

一度日本へ帰った後、なぜもう一度日本語教師の職に就こうと思ったのですか?

1年半、ハルピンで日本語教師の仕事に従事し、「話をわかりやすく伝える能力」が一層磨かれました。そして私自身が「アナウンス業に戻りたい」と思ったので、日本に帰ることにしたのです。

帰国後、力を入れた仕事は企業での社員研修でした。この仕事は「話をわかりやすく伝える能力」が特に必要で、ハルピン時代に培った経験が活かされました。

順風満帆かと思えた日本生活でしたが、そこに落とし穴がありました。それは「新型コロナウイルスの感染拡大」です。新型コロナウイルスが流行するや否や、アナウンス業や企業での社員研修の仕事は激減。生活することが困難になってきました。そのような時、助け舟を出してくれたのは、ハルピン時代の教え子でした。「日本で仕事がないなら、中国で日本語教師になりませんか?」と勧められ、広州で日本語教師になる決心をしたのです。

現在の目標、したいことがありましたら、教えて下さい

目標というと大袈裟ですが、私が今思っていることは「これからずっと日本語教師を続けたい」ということです。私は多くの人と出会える「日本語教師」という仕事が性格に合っているようで、毎日楽しい日々が過ごせています。生徒たちとの授業や食事、友だちとのお茶会などなど、無理はせず、自然体の姿でこれからも多くの人たちと一緒に人生を楽しんでいきたいと思っています。

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