広州人物図鑑

  • 自分が苦労した経験を生かして…広州に暮らす日本人の生活をもっと良く楽しく

日本人が集まるさまざまな「会」の会長や世話役を務め、広州在住日本人のまとめ役となっている白井準さん(広州亜必思房地産代理服務有限公司ハウジングアドバイザー)。今ではすっかり広州通の白井さんですが、2003年に広州に来たきっかけは、思いもかけないことでした…。来広からのドラマチックなストーリー、そして広州の魅力をお伺いしました。

——広州に初めて来たのはいつですか?

白井準さん(以下、白井) 忘れもしない2003年8月22日です。

当時私は21歳。地元・愛知県豊橋の洋服店で働いていました。私の父は建築業を営んでおり、上海などに建材を買い付けに来ていた関係で、中国の経済成長を肌で感じており、私にも中国留学をすすめていました。しかし、私にとっては中国に住むなんて考えたこともなく、「いかないよ」と断っていました。

そんなある日、「とにかく、一度中国に旅行に行こう。費用はオレが全部面倒見る」と父が言うので「そこまで言うなら」と一緒に行ってみることにしました。行き先は、なぜか上海ではなく、父の通訳をしてくれていた友人・周さんが住んでいた珠海、そして近隣の大都市・広州でした。

日本からまず珠海に入り、3日ほど観光や買い物をしました。珠海はとても楽しく、「中国もなかなか良いところだな」と思ってきた4日目に広州へ移動しました。

沙面を観光した後、父が「学校見学してみないか」と言いました。珠海が楽しく、すっかりごきげんだった私は「見てみるだけならいいよ」と言って、父と一緒に中山大学のキャンパスへ行きました。外国人が中国語を学ぶ「漢語中心」を見学し、案内してくれた学校の人に「留学は考えてみます」と言い、見学は終わりました。

その後、学校の事務局に行くと、父が中国語で書いてある紙を渡して「これにサインして」と言いました。中国語なので内容がわかりませんでしたが、どう見ても大したことが書いてなさそうな書類だったので、なんとなくサインしました。

すると、父がおもむろに大量の人民元を取り出し、その紙と一緒に受付に提出したのです。そして、受付の人もお金を確認し、受け取っていました。

「はい、もう授業料払っちゃったから、仕方ないでしょ。頑張って勉強して」

父が言ったこの言葉で、あの紙が実は入学申請用紙だったことを知ったのです…。

その足で留学生宿舎に行き、ワンルームタイプの部屋に入居手続きをし、留学手続きは私の周りで着々と整っていきました。そして、翌日、父は「じゃあ、仕事があるから」と日本に帰ってしまいました…。

こうして、思いもかけない中山大学の留学から、私の広州生活は始まったのです。

驚くことに、父のこの計画は、母にも知らされていませんでした。実家に帰った父に母が「準はどうしたの?」と聞くと、「広州に置いてきた」と答えたそうです。こうでもしないと、私が中国留学しないということを父はわかっていたのでしょう。

——留学生活はどうでしたか?

白井 中国語は「ニーハオ」「謝謝」そして漫画で覚えた「我愛你」しかわからないまま、誰も知り合いがいないところに一人で放り込まれ、最初はものすごく苦労しました。

マクドナルドが学校の前にありましたが、「言葉が通じないから注文できないだろう」と思い、怖くて行けませんでした。香港系スーパーの場所を教えてもらったので、そこで食パン、りんご、牛乳、水を買い込み、最初の数日はそれらを食べて凌ぐ生活。真夏でしたが部屋には冷蔵庫もなく、クーラーの前に食べ物を並べて、腐らないようにしていました。

9月から始まった中国語初級者クラスではピンインからスタート。教科書に書いてあるのは中国語と英語のみ。中国語の意味を英語で見て、それを英日辞典で調べてやっと意味を理解できました。教科書のなかの中国語の英語訳がおかしいところもあって「なんだか意味が合わないなあ」ということも少なくありませんでした。

中山大学では2年勉強しました。最初は苦労した留学生活でしたが、インドネシア人や韓国人の留学仲間と毎日中国語で会話していたので、2年を修了する頃には、バリバリ買い物交渉ができるくらいに中国語が上達しました。最初は父に「やられた!」と思いましたが、結果的にはとても楽しい留学生活でした。

——その後、広州に残ることに?

白井 はい、留学修了後、就職活動をして、1年ほど違う会社で働いた後、アパマン広州の前身となる会社に、立ち上げと同時に入社しました。アパマン広州の社長である中河原とは元々面識があり、誘われたのがきっかけです。そのまま、現在まで、約12年、アパマン広州で日本人の皆様に向けた不動産紹介とアフターケアのお手伝いをしています。

——広州の仕事の楽しさはなんですか?

白井 今の仕事は、日本から広州に来てお仕事される皆さんにお部屋を紹介するとともに、さまざまな生活サポートをご提供しています。日本から異国の広州という街に突然住むことになり、何もかもわからず少しずついろいろなことを自分で開拓していった私は、日本から来て戸惑う皆さんに気持ち、苦労がよくわかります。だから、是非自分が習得したことを皆さんにお伝えし、いろいろなサービスをご提供することで皆さんのお役に立てるのが、とてもうれしく、楽しく思います。広州に暮らす日本人の生活をもっと良く楽しくしたい、というのが私の希望です。

——広州の魅力は?

白井 気候が温暖で過ごしやすく、地震もないのが良いです。豊橋はちょうど南海トラフの上なので…。
広州に限らず、中国にはお金が集まっています。お金があるところには、チャンスが飛び交っています。一方で、中国はまだまだ改善できる点が多いとも感じています。なにか足りないものがあるところに自分がいるから、自分が活かせると思います。そういう意味では、広州は日本より自分の力を発揮できる場であると感じています。これが、一番の魅力でしょうか。

——広州在住日本人のいろいろな会の会長や幹事をしていますね。

白井 はい、今はゴルフのサークル、カラオケサークル、そして広州東北県人会の取りまとめを担当しています。幹事をすると、会員の皆さんと連絡を取るので、多くの人とコミュニケーションできて、知らなかった方とも親しくなれるのがうれしいですね。駐在を終えて帰国する人も多いのですが、送別会を企画して、送別の品を考えたりするのも楽しいです。送別するのはいつでも寂しいものですが…。

——これからの夢は?

白井 弊社グループは、広州の皆さんの暮らしを「衣食住」というすべての面からサポートしたいと思っています。衣はまだできていませんが、食はラーメン店「博多一幸舎」と天ぷら店「博多天ぷら泰」を展開し、日本の味をお届けしています。住については、すでに物件紹介や生活サポートを行っていますが、夢は「アパマンマンションを作りたい」ということです。

今、広州の家賃は高騰し続けています。予算内で住もうとすると、1年後にはどうしても引っ越しを余儀なくされるケースが出てきています。こうした中、適正で手頃な値段できれいに快適に住める日本人向けサービスマンションができたら、より皆さんに喜んでもらえると思うのです。実現するのはまだまだ先となりそうですが、夢を持ち続けて頑張っていきたいと思います。

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