広州人物図鑑
- 「広州へ来た理由、やってきたこと、そしてこれから」
みなさん、初めまして。八田真太と申します。
広州商工会の方々にはこのような機会を与えてくださり、心より感謝申し上げます。字数制限もないとのことですので、徒然に書かせて頂きます。
長文になるかも知れませんが、最後までお付き合い頂けると幸甚です。私は大手企業のトップを務めたこともなく、日本を代表するような何か大きな仕事をした というわけでもありません。そんな私が書く内容ですので、皆様のご参考になるかわかりませんが、一文でも何かのお役に立つ部分があれば嬉しく思います。
まずは広州に来た理由ですが、大学在学中に2年弱の台湾留学をしておりましたが、当時父が台湾、中国で靴製造の技術顧問を始めていたこともあり、勉強した中国語が実際に使えるか試しに来ないかと言われ、広東省のトンカンに行ったのがきっかけです。
自分で何か事業をやってみたいという気持ちがあり、やるなら大きい都市でということでトンカンから単身広州に参りました。丁度2002年のことです。
教師の道を選んだのはやはり台湾留学時代にアルバイトで週に一度ある小さな貿易会社で日本語を教えていましたが、いよいよ帰国するという最後の日にある学 生さんから「今まで多くの方が先生として教えてくれましたが、八田先生が一番よかったです!」という一言が私の進むべき道を示してくれました。
広州に来た当初は何も分からず、食べて行く為に私立の語学学校でアルバイトを始めました。アルバイトをやりつつ、自分で広州市内のホテルを自転車で廻り、今後増えていくであろう日本人の宿泊客にホテル専用の言い方などを学びませんかと営業する日々でした。
そんなある日、アルバイト先の学校である学生さんから「日本語の先生探している学校があるから、八田先生、行ってみたら?」と声を掛けて貰いました。それ が今の中国人の妻との出会いです。最初はその学校の面接でした。面接をしてから暫く後、「一緒に学校をしないか」と思いもよらない申し出を受けました。当 時はアルバイトはしたことはあっても、自分が人を使ったこともなく、企業で働いた経験もない自分に会社を作るなどと大それたことができるはずもないと思っ ていましたが、後に妻となるその女性の強いススメと私の家族の「まずはやってみるべし」という後押しもあり、2003年に小さなオフィスと教室を借り、事 業を創めました。
それからというもの、毎日の授業、従業員管理、その他の出張事業、中国語家庭教師派遣業務等、できることできそうなことを色々と始め慌ただしく毎日が過ぎて行きました。その間色々とお声がけを掛けて頂き、教師以外の仕事もさせて頂きました。
NHKエンタープライズさん関係の日中高校生文化交流のアレンジや日中旅行展示会のイベント司会、全く畑違いのキャラクターデザイン関係の通訳等どれも初 めてする事ばかりでしたが、すべて「お試し」だと考え、自分が出来うることを惜しみなくやっていると何でもできるということに気づきました。
その自信が自分の受け持ちのクラスや大学での講義の時に単に日本語を教えるのではなく、「人創り」とも言える人生についての考え方や気持ちの持ち方などを 自信を持って学生さんに説くとこができるようになりました。ただ単に日本語を教えるだけの仕事ならこれほど長くやっていないでしょうね。優れた先生、知識 の豊富な先生はたくさんいらっしゃるだろうと思いますが、私は10年後、20年後、30年後にも思い出して頂ける『記憶に残る先生』をコンセプトにやって 参りました。
ですので、いつも「どうやったら学生さんに強く印象付けられるだろうか?」という視点で文法や単語を教えて来ましたし、それ以外の面でも『記憶に残る』接 し方を心掛けてきました。ある時、大学の講義中に爆睡している学生さんがいまして、殆どの先生は恐らくその学生さんを叱責するでしょう。私もどうしてやろ うかな、って考えました。
このまま何もせず見て見ぬ振りをするのも冷たい先生だという負の印象を与えかねないと思い、一般的な先生と真逆の対応をしてみることにしました。丁度冬で まだ肌寒かったこともあり、私が着てきたコートをその爆睡している学生に掛けてあげたのです。クラス中響めきましたね。(笑)授業中に寝ている学生を見 て、先生がコートを掛けてあげるなんて今まで見た事もない光景だったでしょうから。
そこで私その他の学生に言いました。「もしみんなが授業中寝ていたら、同じことをしてあげるよ。授業中、寝て先生にコート掛けて欲しい?」。「(みんな一 斉に)いいえ、嫌です。」「(私)恥ずかしいでしょ?だからできるだけ寝ないようにしようね!」こうやって多感な学生さん相手に思い出に残る授業を続けて 参りました。
そして、いよいよ私がその大学を離れるという時、ある学生さんからメールを貰いました。そこにはこう書いてありました。「八田先生、こんにちは。今日、八田先生がいなくなると聞きました。
だから、私は○○先生の授業に出ました。」最初は意味が分からず「いやいや、なんで?私の授業に出るのがフツーでしょ?」。でも、続いてこう書いてありま した。「○○先生もとってもいい先生です。もしかしたら○○先生も八田先生のようにいなくなってしまうかもしれません。その時に後悔したくないので、これ からできるだけ出席するようにします。八田先生の授業に欠席することが多く、今凄く後悔しています。もうこんな後悔はしたくありません。」なるほど、そう 来るか!自分が思っても見ない効果があるのもこの仕事の面白いところですね。きっと彼らの心の中で私は生き続けると信じています。
そんなことをして来た私ですので、これからも「人」の成長に携われることができればと考えております。私はモノを作ったり、設計したり、システムを構築し たり、絵を描いたり等の「モノを生み出す」能力はありません。それはその分野の専門家にお任せしたいと思います。私がお手伝いできる分野は「『人』造り」 だと思います。
先日日本に帰り、実感したことは日本の高齢化とそれを支える若い方のホスピタリティーでした。ただ、今の状況は医師や看護師 が殆どすべての実務業務をこなしながら、心のケアまで行うという大変さを目の当たりにしました。これから10年後には医療のネットワーク化、デジタル化が 進み、家庭で血液検査・データ分析を行いそのデータをオンラインで病院に送り、薬が郵送される等のオートメーション化も進むだろうし、遠隔手術のようにあ る点在する手術スポットを各地域に設置し、医師がカメラ映像を見ながら、手元のモーションキャプチャーで自身の手を動かすとそれに連動して、離れた手術室 にいる患者の手術をロボットが医師の動きを忠実に再現し、手術を行うという遠隔手術も可能になるでしょう。しかし、術後の患者のケアや介護をロボットが 行ったとしても本当の安らぎは得られません。そこはやはり「人」の力の発揮するところであると思います。今後は海外でゆくゆくは日本へ言って介護を担って くれる若い力の育成のお手伝いができればと考えております。「『人』造り」これが私が今後携わって行きたい分野です。ただ、どうなるかわかりません。今ま で計画を立てて進めたことがその通り行かなかった事の方が多かったです。ただ、振り返って見ると「あの時はああ考えてやったけど、今思うと計画通り行かな くてよかったなあ。」ということが多々ありますので、もしかしたら将来ブラジルで豆腐を売っているかもしれません。それでも、私は自分の人生に、選んだ道 に納得してやっていると思いますので、どうかお許しくださいませ。最後になりましたが、広州での滞在期間中には多くの方のお力添えを得ることができ、ここ まで大過なくやって来られました。
この場をお借りして皆様には心より御礼申し上げます。人生は人それぞれです。どうか皆様も他人と比べることなく、ご自身の気持ちと照らし合わせ、人生をお過ごしくださいませ。最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。感謝、感謝、そして感謝!
八田真太 2015年7月11日