広州人物図鑑
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成功の秘訣は「人」
「日本食普及親善大使」「広州日本食廚師会会長」として、広州の日本料理界を牽引している藤鶴の伊藤満さん。板前になったきっかけから中国での展開、さらに将来の夢までお伺いしました。
−−広州で今、3店舗展開されていますね。
伊藤総料理長(以下、伊藤) 広粤天地にある藤鶴本店は4年目を迎えました。平均客単価は夜1000元以上と高級店の位置づけ、お客さんの80%以上は中国の方ですね。2号店は居酒屋スタイルで平均客単価は300元ほど。現在開発が進む琶洲エリアにあり、こちらは90%のお客さんが中国の方です。広州東駅近くにある3号店は他の2店舗とは異なり、80%が日本人のお客さんです。出前中心なのですが、最近はテラススペースを作り、店内で食べられる空間を広げました。
−−板前になったきっかけは?
伊藤 私は福岡出身ですが、板前になるために高校を3年生の3学期で退学しているんです。きっかけは、実家に福岡市内のお寿司屋のご主人が見えて「若い人を募集している」という話を父にしていたのを聞いたことです。私は当時、家業を継ぐのがどうしても嫌だったんです。だから、ご主人の話を聞いて、このチャンスしかない!と思い、「自分が行きたい」と志願しました。
このお寿司屋では、8年ほど修業しました。掃除から始まって洗い物など下働きばかりの日々が続き、5年目くらいに初めて寿司を握らせてもらえました。3年目くらいまでは辞めたくて仕方なかったですね。でも、3年経ったあたりで、魚をおろしたり、いろいろな仕事をさせてもらえるようになり、自分の技術が向上しているのが感じられて、だんだん面白さがわかってきました。
この店から始まり、福岡でいろいろなお店を転々としました。そして、14年前に大連に行くことになったんです。
−−中国に渡ったきっかけは?
伊藤 福岡では調理師会に入っていたのですが、そこで「大連のホテルに行かないか?」というお話をいただきました。それまでにもタイやシンガポールなど海外オファーは数回あったのですが、この大連の時が、ちょうど自分の仕事も一段落していて、タイミングが良かったのです。
海外に行きたかった理由は、自分の仕事が海外でも通用するのか知りたかったから。日本で日本人の方に日本料理を食べていただくのはやってきたが、海外で海外の方に召し上がっていただき、喜んでいただける仕事ができるのだろうか、という気持ちがありました。
大連に行ってから最初に2ヶ月は、帰りたくて仕方ありませんでした。当時、中国人の方は買い物に行っても知らんぷりしたり、声も大きかったりして、いつでもイライラさせられました。でも2ヶ月経ったら、慣れましたね。そしたら、中国はすごく住みやすいと感じるようになりました。
大連のお店のスタッフは学び終わるまでしっかり学ぶという姿勢、皆真面目でした。こちらも、わかるまでとことん教える、という姿勢でやりました。
その後、知人を通じて、北京の店からオファーをいただき、北京に行きました。この店は高級路線。日本酒も高い銘柄が人気で一本5万元のものも飲まれていましたね。
住心地は大連の方がよかったですが、仕事のやりがいは北京のほうがありましたね。北京のお客さんは寿司や刺身を好むなど、日本と同じ食べ方をする方が多かったです。大連は刺身を食べられない方も多かったので、北京の食文化の洗練度合いには驚きました。
ーー広州に来たのは?
伊藤 7年前、広州日航ホテルの弁慶の総料理長として来て以来、ずっと広州におります。実は、広州ソフィテルが開業した際、少しだけ同ホテルでシェフとして働いていたことがあるのです。その時に知り合ったのが、当時の広州日航ホテル支配人・志田さんです。北京にいる頃、志田さんに「うちのホテルに来てくれないか」と3回頼まれました。でも、その頃、北京の店のオーナーとも店舗展開を進める話をしていて、北京を離れる訳には行きませんでした。
でも、3回目のオファーを断った翌日、志田さんが飛行機に乗って広州から北京に飛んできたんです。そして「どうしてもお願いできないか」と言われ、熱意に負けて、広州に行くことにしました。
最初に広州日航ホテルに行った時は「あちゃー!」と思いました(笑)。当時、ホテルの周りは田んぼばかり。北京では繁華街の三里屯に店があったので、そのギャップは大きかったのです。
仕事も大変でした。何しろ、立地条件の厳しさもあってか、お客さんが少なかったのです。そこで、今も同ホテルで活躍されている竹田さんと2人で「どうやったらお客さんを呼べるか」を一所懸命考えました。
当時のメニューを見た私は「安すぎる」と感じていました。そこで、600元と800元の懐石セットメニューを作ることにしました。スタッフからは「田んぼばかりのこんなところで高級メニューを作っても売れない」と言われましたが、私は「メニューに載せなければ、出ない。メニューに載せたら、出る」と考えていたのです。
結果は、このセットメニューを目当てに来店される日本人の方が増え、半年経った頃には状況はかなり良くなりました。ラッシュ時には市中心部から1時間もかけて来てくださるお客さんもいらっしゃいましたね。
弁慶が起動に乗って3年くらいした時に、「自分の店を持ちたい」と独立し、藤鶴を始めました。その時、私は、ちょうど60歳になる前でしたので、「60を迎えて恩返しをしたい」と考えたのです。こうして、海外でお客さんに料理を食べてもらっているのは、日本の師匠たちの教えがあったからです。だから、「これだけ頑張りました」というのを見せたいと思ったのです。
ーーなぜ高級路線の店をスタート?
伊藤 その頃、すでに広州には日本料理が多数ありました。「彼らと同じではだめだ、自分ができることはお寿司、そして高級料理だ」と考え、良い食材を使い、高いレベルの料理を提供し、それに見合う代金をいただける店を作ろうと思ったのです。
当時はこのような高級路線の店は広州になかったので、上海や深圳の同業者からは「まだ早い」と言われました。しかし、オープンしたらすぐにお客さんが入ってくださり、順調にビジネスが成長しました。
ーー成功の秘訣は?
伊藤 「人」ですね。藤鶴オープンの時には、北京などから教え子が集まってくれたんです。10年以上の人も含め、7,8年以上、私と一緒にやっているメンバーが今も16人ほどいます。だから、料理やサービスなどもイチからの教育ではなく、最初から一定レベルのものがご提供できたのが大きいです。繁盛するかもわからない新しい店に可能性を感じ、私を信じて北京などから来てくれた彼らには本当に感謝しています。
ーー広州の魅力は?
伊藤 広州は日本人社会の規模が大きくも小さくもなく、色々な機会で日本人の方と触れ合えるのが魅力だと思います。北京や大連では在住日本人の方とのお付き合いはほとんどありませんでしたが、広州では日本人のお友達がたくさんできたのが嬉しいですね。
あと、温かい気候も魅力です。大連や北京の寒さは本当に辛いです。私は九州出身ですので、寒さには弱いんです。
それから、広州は中国人のお客さんが優しくて穏やかな雰囲気なのもいいですね。表情が穏やかで、何か質問されるときもゆったりしているように感じます。
−−今後の展開は?
伊藤 3月に4号店を広州東駅付近にオープンする計画です。4号店は3号店のような庶民的な価格帯でお寿司を楽しんでもらえるお店にするつもりです。本来はもう1店舗高級店を出す予定でしたが、3号店の反応を見て「日本人の方に気軽にお寿司を食べて喜んでいただけるのは嬉しい」と感じました。だから、新店舗もこの路線を踏襲し、日本の立ち食い寿司店のような感覚のお店にしたいなと思っています。
また、日本料理を教える料理学校を作りたいと思っています。職人の面接をすると、「この道10年やってきた」と言っている人と私の店で1年修業した人では、その実力は雲泥の差があります。料理大会の審査員をやることもありますが、そのレベルはまだまだ低いのが現実です。だから、広州の日本料理全体のレベルアップのためにも、「人」の育成につながる学校を作りたい、という夢を持っています。夢の段階ではありますが、今、少しずつ話を進めているところです。