20年の歳月、世の中はどんなに変わるだろう。
皆様は今日見える広州天河の中心エリアは、1980年代前半まではどんな姿だったのか。ひとこと言えば、野菜畑だった。
「うそ!」と言われそうだが、本当だったのだ。
中学生までの記憶では、華南師範大に住んでいた為、市内行きはまさに「御上りさん」感覚。車・地下鉄皆無の時代だったので、今でも走っている22番のバ スが、広州市街に出る唯一の交通手段だった。(タクシーが少なかったか値段が高かったかせいか一度も乗ったことがない)。「華師後門」バス停から「楊箕」 まで、2車線の道路が1本しかなく、道路の両側は野菜畑と点々とした農家の家。四季折々違う野菜が栽培していた。幼い自分は、畑の向こうに何があるのか興 味津々だった。
天河体育中心の所在地は1980年代前半までは「機場東」と呼ばれ、廃棄された小型軍事用空港だった。あの頃、バスで「機場東」を通過した時、いつも飛 行機を見たいが一度も見たことがない。天河体育中心は1986年に行われた第6回全国スポーツ大会(六運会)の為に作ったものだ。今の天河城広場と黄埔大 道の間にある住宅団地は「六運村」といい、その大会の面影が残っている。
当時、広東省は主に自分自身の力で民間の資金を利用して、「六運会」を成功裏に開催したそうだ。中学生だった私でも、まだ当時のスローガン「不能譲全国人民恥笑広東」(国民に広東を笑わせないように頑張ろう)を覚えている。
六運会が広州で開催し、スポーツ競技場が天河に建設したのは、天河発展のきっかけになった。
あれから20年以上の日々が静かに流れていった。
その後野菜畑も眠っていた土地も、少しずつ道路・橋になり、工場になり、商業施設と住宅になり、だんだん今日の天河に変貌してきた。
人口も一気に増え、天河区は新移民の区と言われ、一人一人心の中にそれぞれ「天河」のイメージがあるが、私のような「古い」記憶を持つ人はほんの一部になった。
天河城広場ができた当初、JUSCOさんが「先見の明」で入った以外、ほかはガラガラで寂しかった。中信ビルがオープンした時、新観光スポットができたと、入居者が少なかったが「観光客」が賑やかだった。今日のこの2箇所の模様は皆様がご存知の通りだが。
その変貌と同時に変わってきたのは、天河に住んでいる我々自身。生活の全ても、考え方も。
西ヨーロッパ旅行の時出会ったあちらの町は、時が止まっているような町が多かった。20年後また訪れても雰囲気が変わらないような気がする。しかし、広州の20年はまさに滄海桑田だ。
※当サイトに掲載しております「この街の楽しみ方」につきましては、
会員様よりご投稿いただき、当商工会で予め内容を確認し、掲載しております。
しかしながら当商工会では掲載されている内容につきまして、責任を負いかねますことをご了承願います。